身の回りの生き物についてあれこれ書いてます。更新は1〜2週間に一度、週末です。詳しくはこちら。

2012年6月24日日曜日

巻きもの帳その1

 園芸書などでは「咲き終わった花がらは即刻摘みましょう」
と「花がら撲滅運動」を推進してあり、実際、花がらが
残ったままだと著しく美観を損なうこともあるので(おお、
なんと哀れなブッドレア、みすぼらしいマーガレット!)、
わたしも園芸書にならって親の敵のようにチョッキン
チョッキンやっている。特にゼラニウムはすぐに。
しかし、ある日、ずぼらにより放置してみたら、綿毛が
たくさんついている。
ゼラニウムの種なのである。

ゼラニウムは園芸用の通名で本名はペラルゴニウムで
ある。なぜペラルゴニウムなのにゼラニウムと呼ばれる
のかというと、ゼラニウムはゲラニウム、フウロ草の
ことであって、園芸種のゼラニウム(テンジクアオイ)と
呼ばれるものとはチト違うのである。昔は両者同じ
Geranium 属にいたのだが、やっぱり分けましょ、
まぎらわしいわ、ということで、ペラルゴニウム属に
なった。が、いかんせん先に「ゼラニウム」として顔が
売れてしまっていたため、改名するのもね、という事で
ゼラニウムのままで通す事になったといういきさつ、
らしい。
そして、ペラルゴニウムという名前については、
実のふさの形がコウノトリ(pelargo)の頭みたいだから
である。↓このように。
 この実のふさの中に種が入っているのだが、
それが、あるときゆっくりしゅるしゅると巻いて
ゆく。試しに机の上で巻いている様を観察して
みることにした(暇人である)。
倍速カメラがあるといいのだが、あいにく
そんなものはないので、時々眺めて観察すると、
見るたびにアッチコッチひっくり返って、
寝相の悪い子どものようである。
そうして3日ぐらい経ち(白状すると、途中で
スッカリ失念して放置状態になってしまい、
正確なところどのぐらいかかったのか分からない、
ちっとも観察になっていない。)くるくる巻かれた、
飛行準備万全の綿毛の種子になる。

 綿毛を眺めていたら、自然界にはどうしてクルクル
巻かれたものがたくさんあるのだろう? と思い、
他の巻きものについても考えてみたくなった。
それは次回に続く、なのである。

2012年6月16日土曜日

ビジネス書と私小説のはざまで


ベランダ園芸をしている。かれこれ11年かそこらで
ある。最初のうちは随分と無茶をしたものだ。鉢の量も
一時期は増え過ぎ、幾多の病害虫との戦いを経て、何と
なくベストバランスを発見し、落ち着いている。が、
やはり今でも新たな発見や失敗はある。

例えば、ずっと生育がよくないなと思っていたクレマチス
の置き場所を変えてみたら、思いのほかよく育つように
なり、去年までの姿とは別人(花)のようである。
ベランダでは、置き場所はままならない事も多いが、
やはり一番大切なのは何と言っても置き場所である。人間も
同じである。自分に合わないフィールドでがんばっても
いまひとつ成果がでない。自分にあった水を得れば
のびのびと実力以上の力がすんなり発揮できる。

育て方については、試行錯誤で、園芸書に頼らない
自分なりのメソッドを発見するのも大事だ。ただ、
いつも自己流というのもよくない。うまくないときは
基本に返って、園芸書を読み返してみると、分かった
つもりになっていて分かっていなかったことに気づか
される事もある。ただ、植え替えや剪定については
必ずしもセオリー通りでなくても、自分の育てたい
サイズやスタイルにある程度あわせる事もできる。
やりたいようにやればいいーこのベランダの創造主
は私である。

かまい過ぎもよくない。特によくないのは肥料の
やり過ぎだ。むしろ少し足りないぐらいでちょうど良い。
やり過ぎは肥料焼けを起こし、最悪枯れてしまう。
人間も甘やかされすぎると増長し、ダメになる。(が、
わたしに限って言えば、わたしは完全に「誉められて
伸びるタイプ」であるので、わたしには皆さんどうぞ
あくまでもやさしくしてほしいと切に願う。)

水に関しても、基本は肥料と同じ事が言えるのだが、過酷
環境ベランダでは、水切れは即、死を意味するので、水に
関しては、通常環境よりやや湿りがちで慣れさせている。

また、かまい過ぎはよくないが、あくまで愛を持って放置
するのであって、常に様子は見ておかなければならない。
愛が足りなければへそを曲げるのは人間だけではない。
もっとも悪い事には、気づいたらハダニとうどん粉と温室
コナジラミにまみれて周囲を巻き込み大惨事、愛の復讐は
恐ろしいのである。

しかし、愛だけではどうにもならない事もある。理由も
分からず滅びてゆくものもある。諸行無常を体現するのが
庭(含ベランダ)である。そういう時は、別れを惜しみ
つつ、その空いたスペースで次は何を育てようか、と
思っているまったく薄情な自分を発見する。ひどいもの
である。
途中まで、この分ではビジネス書の一冊も書けそうでは
ないかと思いながら書き進めてきたが、最終的には愛の
無情と人間の身勝手さを描く私小説のほうがいいような
気がしてきた。園芸家は業が深い。

2012年6月8日金曜日

なってみたいな夜の蝶

蛾はたいてい夜活動している。フランス語で蛾は
papillon nocturneと言う。(これは辞書で調べた
のだが、わたしのフランス語の先生のフランス人は
papillon de nuitと言っていた。どっちだ?たぶん、
どっちでもいいというか、フランス人はあまり虫に
興味が無いのかもしれない)いずれにしても「夜の蝶」
だ。わたしもイラストレーターでやっていけなくなったら
スナックさおりを開店して夜の蝶になるかもしれない。
(が、スナックさおりはママが飲んだくれて、つまみは
乾きものオンリーというひどい店である。やっぱり
やめたほうがいい)






話がそれたが、そうはいっても 昼間活動している
(姿を見る)蛾も結構いる。
特に目立つのが、ホタルガだ。特にこれからの時期、
ふらふらふらーと頼りなげに優雅に飛んでいるのを
見かける。
ホタルガはモードな蛾である。赤い帽子に黒地に白い
ラインの入った、いかしたドレスをまとっている。
普段わたしには全然区別がついてないが、ホタルガには
ホタルガとシロシタホタルガがいて、何が違うかというと
白いラインの入り方が違う。(↑左がホタルガで右が
シロシタホタルガである)一体なぜこんな微妙な
(言ってみれば別になくてもいいような)バリエー
ションが生まれるのか、教えてダーウィン先生という
気分になる。また、シロシタホタルガがホタルガと
違うのはもう一つ、幼虫の頃もモード感が強い水玉
模様である。
ホタルガの名前は、蛍に擬態しているかららしい。
頭が赤くて体が黒いからだ。では白いラインは、
光を表しているのだろうか?光らないのに光っている
ように見せるささやかな努力は、ファッションにおける
「痩せて見える服」などのコンセプトにも通じ、ますます
モード感が強い。

似せてみせる、といえば、昼間のスーパースターに似せて
昼の世界を謳歌している蛾もいる。 ジャコウアゲハに似た
アゲハモドキである。なぜジャコウアゲハに擬態している
のかというと、ジャコウアゲハは毒を持っているので、
似せればわたしも安泰だわ、鳥さん、わたしも食べら
れないのよ、そういうことでよろしくね。ということ
らしい。が、ちょっとお待ちよ、アゲハモドキの
うっかりものは、触覚まで蝶に似せるのを忘れている。
わたしは蛾です、の存在感ありありの櫛形の触覚のまま
なのだ。そう思って見ると、 シッポをつかまれてるのに
「わたしは蝶よ」とすましているような気がしてきて
なんだかちょっといじらしい。

活発に昼活動するのはオオスカシバやホウジャクである。
ハチドリみたいにホバリングして、同様に花の蜜を
吸っている。これは果たしてハチドリに擬態している
のだろうか?しかし日本にはハチドリはいない。
いないものを真似る事はないだろうから、他人のそら似、
ライフスタイルが似た者は形態も似るという事なの
だろうか?よく分からない。が、蜜を吸う姿は大変
かわいらしく、わたしは彼らが好きなのでアベリアや
ブッドレアをベランダで育てて来訪を待っている。

オオミズアオ もよく昼に見る。夜活動しているようだが、
昼も結構いろんな所で羽を休ませたり、あるいは飛んで
いるのも見かける。オオミズアオが飛んでいるところは
あれ?モンシロチョウにしちゃ大きいな、はんかち?
みたいな感じである。とまっていても、「あれ?こんな
ところにメモ貼ったっけ?」みたいな錯覚をする。
よく見ると、大変美しい。青みがかったオナガミズアオ
という種類もある。オオミズアオたちはホウジャクなど
と違い、口が無い。はかない命を恋に燃やして命を
終える。

と、派手な蛾にばかり目がいくが、マンションの壁には
「わたしは壁です」とへばりついてじっとしている、
ぜんぜん壁じゃなくて朽ち木模様のヨトウガやシャクガ
などもいるのであった。だいたい、蛾のほとんどは
木目っぽい。それを考えると、フランス語ではpapillion
 d'arbre(木)でもいいのではないか。
ごめんね、マンションが木目模様じゃなくて。と見るたび
ちょっと申し訳なく思う。 
あと数百年ぐらいしたら、マンションのタイル模様に
擬態した蛾も生まれるかもしれないが。

2012年6月3日日曜日

ナインライブスだからあと5回出会うのかもしれない


わたしは幽霊とかスピリチュアルとか風水やら占いやら
信じない無神論者の無粋な人間である。その理由としては、
宇宙規模のすべての神秘的な奇跡により、いま私たち
人類は偶然にこの地球というすばらしい星に間借りさせて
もらっているのだが、その宇宙規模の神秘が人間に特化
して、さらに個人の恋愛問題や部屋の模様替えなど些末な
問題まですべて作用してくれると思うのはチト虫が
よすぎるのではないかと思ってしまうからである。
(また、幽霊については信じると恐ろしいので信じない
という教義を積極的に採用していきたいのである。)
全ては偶然にすぎない。我々は塵と灰である。

...と言う前口上を全て覆して申し訳ないが、ひとつ、
秘密を告白しよう。わたしは呪いにかかっている。
なんの呪いかというと、「茶トラ猫の呪い」である。

それは小学校6年生のこと、クラスの友人が子猫を2匹
拾ってきて、クラスの皆で里親探しをしながら(クラスの
誰の家でも飼う事が出来なかったのだ)順番でその猫を
預かる事になった。わたしは猫を飼った事はなかったが、
猫に対する無限の憧れがあった。3年生のとき、猫を
飼ってる友人がクローバー咲き乱れる団地の芝生の上で
「猫とはね、鼻と鼻をくっつけると心が通じ合えるんだよ」
と得意げに秘密を開陳してくれたのだ(その場に猫は
いなかった)。 心が通じ合える?そんな、童話のような、
ムツゴロウさんのような事が現実に起こるのか。
いいなあ、猫。きっとわたしなら(誰よりも)猫と分かり
合えるはず。という子供らしい独善的な思い込みにより、
わたしはその時、猫との運命を勝手に感じはじめた
のだった。しかし友人は続けて言った。
「でも、それが出来るのは飼い主だけだよ」
猫の飼い主。なってみたいな猫の飼い主。わたしこそ猫の
飼い主に相応しいはず。どこまでも自分中心主義の子供で
あった。

さて、そんな事だから、わたしはその子猫をぜひとも飼い
たかった。親に頼んでみたが、頼む前から答えは分かって
いた。ノーである。わたしの母は、その頃たいへんな猫
恐怖症だったのだ。とんでもない。
しかし、頼み込んで、何度か預かり当番になる事だけ
なんとか許してもらった。猫は茶トラとサバトラだったが、
茶トラの方は体も小さく、弱々しかった。靴箱の中で寄り
添って眠る2匹は、全てのパーツがちっちゃく柔らかく、
ぷっくりとしたお腹が上下に動くさまは、とてもかわい
らしかった。
そうしているうち、やはり弱い子猫のうちに環境がころころ
変わったり、子供に触られたりしたのがよくなかったの
だろう、茶トラの子猫はある日、別の友人宅で預かっている
時に死んでしまった。知らせを受け、悲しくて悲しくて
ベッドで布団にくるまって泣いていたら、そのうちに寝て
しまった。
やがて、うすぼんやりと、寝ているのか覚めているのか、
うつつの浅い眠りの中で、何か、軽い生き物が背中を
歩いているのを感じた。とす、とす、とす、と歩いている。
あっ、死んでしまったあの猫だ。と思い、また眠りの中へ
引き込まれてしまった。きっと、それは只の夢だったの
だろう。
次の日、 クラスで子猫のお葬式をした。わたしは
「ごめんね、ごめんね、生まれ変わったら次は幸せに
なってね」
と祈っていた(まだその頃は生まれ変わりを信じる
ウブな子供だった)。

その後、サバトラの猫はめでたく里親が見つかり月日が
流れ。高校生になったわたしは、茶トラ猫に再会する。
学校の生物室で捨て猫の里親募集をしていたのだ。
大きくなった分、主張の強くなったわたしは、今度は
親の説得に成功し、その茶トラをもらってきた。はじめて
の私の猫。彼女はそれから23年我が家の家族であった。

そして、20歳の頃にもまた用事で近所を自転車で
走っているとき、茶トラの子猫を拾ってしまった。
ごていねいに「拾ってください」とマジックで弱々しく
書かれた段ボール箱に入って、ノミだらけで力一杯
泣いている。これを拾わずおれるものか。あわてて
連れ帰り、2度のシャワーの洗礼(本人にとっては拷問
だったかも知れぬ)を浴びせ、飼い手を探してはみたものの
そのうちにすっかり我が家の家族と相成った。

結婚して家を出るとき、すっかり家と母になついている
2ひきの猫達は、環境を変えたらかわいそうなのでは
ないかと実家に残してきた(と書くと大げさだが実家は
徒歩5分である)。
が、結婚後もまた茶トラの罠があったのである。道ばたを
散歩していると、うらぶれた、今にもつぶれそうなペット
ショップの軒先に「あげます」と書かれた鳥かごに入った
茶トラ猫。ペットショップであげますなどと、この打ち捨て
られよう、看過出来ようか。またしても。あえなく陥落、
もらって帰る事となり、ソファでこの瞬間も一緒に
ダラダラ過ごしたり、鼻と鼻をくっつけあっているという
現在に至るのである。

かわいそうな最初の子猫が生まれ変わったにしては数が
合わないが、なんとなく、あの子猫が呪いをかけて生涯
茶トラ猫と付き合うように定められたのかもしれぬ、と
勝手に思っている。これが「茶トラ猫の呪い」の一部始終で
ある。
...のだが、もしかしたら、明日は黒猫を拾うかもしれない。
宇宙は偶然に支配されているのだから。












人も歩けばBarにあたる、鳥はどうか?


鳥はいいなあと思う。羽根があって、空を自由自在に
駆け巡る。私たち地上にへばりついてる愚鈍な人間とは
大違いである。我々人類は、地べたをうろつくしかなく、
うろつきすぎて酒場にたどり着いたりして、止まり木に
止まってピーチクパーチク、いやいやときには独り飲み、
みたいな事になり、かりそめの自由を味わったりしている。
が、よく見ると鳥も、けっこう地面を歩いているものだ。

特に町中で見かけるウォーキング派はハト、ムクドリ、
セキレイのあたりだ。彼らもうろつく目的はきっと
人間と同じで、食生活なのであろう。ムクドリは芝生や
原っぱなどでなにかをつついて食事している。虫
むしゃむしゃ、虫うまい。というところだろう。
ハトは、メス相手に膨らんでみたり、足下の何かを
つついたりと忙しい。場所はどちらかというと
アスファルトの上で見かける事が多いように思う。
草むらに比べると食べられる物は少なそうに思えるが。
駅のホームなどにもいる。周りにひしめく人間も
忙しく会社へ家へどこかへ向かうが、ホームというのは
その隙間の時間なので、ぽかりと時間が空いている。
空いているのでなんとなく、人間の足の林をくぐり抜ける
忙しそうなハトに目をやったりしている。見るに、ハトは
何か絶え間なくつついているようなのだが、人間の目に
目視出来ないほど微細なものか、あるいはエアー状態な
のか、こちらからみると何にもないところをつついて
いるように見える。私たち人間にはありがたいことに、
駅の掃除員さんは勤勉なのだ。 ゆえに、パン屑なども
滅多に落ちていない。腹はいっぱいになるのだろうか、
とか、一度うっかりとてつもなくおいしいものを
つついて、その後永久にその食べ物に出会えず
「ああ、あのときのあれ、また食べたいなぁ...」と
再会を焦がれている、とか、ないのだろうか。

私が特に好きな歩く鳥はセキレイだ。チョコチョコ
チョコーと、小走りに移動して人間などを避けている。
そのくせ、いつまでたっても飛ばない。ひたすら
歩いている。駐車場などで車が来ても飛び立たない。
ハラハラさせる可愛いヤツなのである。あそこまで
いくと、補食の為に地面にいるのではないような
気がする。歩くのが好きなのか、飛ぶのがおっくう
なのか。おっくうであるほうに私は一杯賭けたい
感じである。と、止まり木でぼんやり考えたり
している。

はじめにー自己紹介とブログについて

こんにちは。イラストレーターの大塚砂織と
もうします。(プロフィールなどこちら)が、
このブログは身近な生き物や植物などについて、
雑事を書くブログです。週1回ぐらいを目安に
更新予定です。
基本的に何か学術的に参考になるような事は
なんにも書いていませんが、読み物として
楽しんでいただければと思います。本人も
楽しみで始めましたので。