身の回りの生き物についてあれこれ書いてます。更新は1〜2週間に一度、週末です。詳しくはこちら。

2012年10月26日金曜日

しばしお待ちを

このところ、近づいてきた展覧会の準備で
更新が追いつかず。
落ち着きますまで、しばしのお待ちを...。
また、展覧会の方も、ぜひよろしく!

2012年10月8日月曜日

は虫類フェードイン

 毎日仕事場に通勤するのに電車を使っているが、
駅のホームから、ホーム外のロータリーに接する
広場の植え込みを何となく眺めている。
ここは、2年前ほどにロータリーを整備したときに
オカメヅタをホームの塀にそって這わせたのだが、
やっとオカメヅタがキレイに周囲を覆ってきたと
思った矢先に、先日めちゃくちゃな刈り込みを行って
丸坊主になってしまった。まったく、公共事業というのは
どうしてこう侘び寂びが分からんのか。とひとりムカムカ
しながら、みすぼらしい植え込みを眺めているのである。
しかも、オカメヅタを切ってみると、下に無数のゴミが
散乱している。ゴミを捨てるな!という怒りとともに、
なぜ刈り込みをしたときに一緒にゴミの清掃をしないのか、
という疑問もわき上がってくるのである。景観をキレイに
しようという志で公園、公共設備の整備、保守をしてる
のではないのだろーか?ぷんぷん。
という説教臭い愚痴から始まって非常に申し訳ないのだが、
その植え込みを見ていて、最近ちょっと楽しいのである。
なぜかというと、そのゴミと枯れ葉の吹きだまりをぼやーと
眺めていたら、ある時、視界の端に何か動きを感じる。
ん?ぎゅっと目を凝らして見てみると、はっ。
フェードインしたように急に気がつく。
たくさんのカナヘビとトカゲがいたのである!

カナヘビとトカゲ、みなさんは彼らがどう違うかご存知
かもしれないが、わたしは今まで、違いがよく分かって
いなかった。が、両方見比べると全然違う。
カナヘビはトカゲより一回りこぶりで、乾いた雰囲気。
トカゲは、カナヘビよりかなり大きい。表面も
つやつやと濡れたようで、色も濃い。いかにも「は虫類」
といった風格があり、肩周りも太い。蛇に手足を
つけたような感じだ。子供の頃は、シッポがキレイな
ブルーなのもカナヘビと全然違う。
動きも、うまく言えないがちょっと違う。カナヘビは
ひょこひょこ、トカゲはシュルッ、という感じだ。



そんな彼らが、枯れ葉とゴミの隙間からチョロッ、チョロッ
と見え隠れしていて、ついつい観察してしまう。
ホームの端っこにいるので、この間など、ついトカゲ観察に
かまけて、電車を乗り損ねてしまった。
植え込みを遠くから眺めているので、表情などは
分からないが、カナヘビはアップで見ると、猫にも劣らない
とてもラブリーな顔をしているはずである。

また、あるとき、家の近所を散歩がてらとなり駅に飲みに
行って、帰りに千鳥足で住宅街を通り抜け帰っていると、
各住宅の玄関の明かりのしたに、何か黒い生き物が
へばりついているのを発見、ヤモリなのである。
おうちの人が知らない真夜中、彼らは玄関先に
カム・トゥゲザーしているのである。
通りの何件かにいたので、観察してみると、彼らは電球色
より蛍白色のライトがお好みのようである。ライトに
群がる虫を狙っているのだろう。もう少し寄ってみたいな、
と思って他人様の家の玄関に近寄る不審な酔っぱらいで
あったが、さっそく「出会え出会え、曲者じゃ、わんわん」
とそのお宅のお座敷犬に気配を悟られ大騒ぎされてしまった
のであえなく退散したのであった。
(家守にお座敷犬、なんとご加護の多い幸せなお宅で
あろうか。)
というわけで、遠巻きのは虫類との邂逅、もう少しそばで
見てみたいなーと思う。人間の目に高度なズーム機能が
あればよいのにね。

ところで、ラウンジリザートという言葉がある。
社交界を徘徊するひとのあだ名であるが、その言葉を
聞くと、わたしはどうしてもフロアにふんぞり返る
ジャバ・ザ・ハットを思い浮かべてしまうのである。
人知れずたくましく生きるトカゲ達よ、フォースと
共にあれ。



2012年9月22日土曜日

宵待草のくれないの恋人

さて、派手な蛾である。
まずは皆さん、Schinia floridaで画像検索をして
ビックラしてほしいのである。
こんな感じの、ストロベリーチーズケーキみたいな
蛾なのである。

 このお方は、アメリカの中心から東の方に分布
しているらしく、待宵草(月見草の仲間)に特に
食性を示す、2.6cm〜3.5cmぐらいの蛾だそうである。
むろん、わたしも見た事はない。このような
見た事のない、あるいは一生見る機会のないものを
見られるとは、まったくもってインターネットとは
シュペール!マーベラス!ハラショー!なのである。
ちなみに、待宵草は、竹久夢二が(間違えたのか?)
宵待草とも呼び、同タイトルの詩を詠んだのが
有名である。

待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草のやるせなさ 
             今宵は月も出ぬさうな

一夜でしぼむ待宵草の花の儚さに託す恋心を描いて
いるのだが、待ち人来たらずとも待宵草の蜜は
蛾達には人気なのである。

日本にもいる可愛いピンクちゃん、ベニスズメ
も待宵草を好む。ベニスズメはスズメガの仲間で
素人がざっくりスズメガの仲間を見分けるのは
簡単である。体型がかの懐かしき人類夢の高速
飛行機「コンコルド」なのである。
ホウジャクやスカシバなどもスズメガの仲間である。
花の蜜を好み、この高速機的体型でせわしなく
ホバリングしながら 蜜を吸っている。

また、スズメガの幼虫類は、ピンと立ったシッポで
判別出来る。成虫もいもむしも、大型であるので
発見すると何か得したような気がする。
(のは、わたしだけかもしれない)。

もう一種類、小さなピンクちゃんも紹介。
マエベニノメイガ。小さな蛾である。
このお方が幼虫の時に食べてるのは、これまた
紫の実がつややかな、オオムラサキシキブである。
(食べるのは葉っぱである)。まったく、自然には
美しさが満ちあふれてるのであるね。

美しさと言えば、なぜ待宵草は彼らピンク族を
引き寄せるのだろうか。 わたしの独断によると、
それは、何か神様的なもの(いや、わたしは
無神論者だけど、そのような大きな宇宙の意志)
が、「待宵草のペールイエローに、こんな
ピンクをトッピングしたら、とってもすてきな
世界にならない?」とウキウキしながら決めた
のではないかと思う、うん。

2012年9月17日月曜日

尺を取られきると死ぬという都市伝説があります

夕方、ベランダの水やりをしていると、セセリチョウを
見るようになった。スカシバなども飛んでいる。カネタタキ
も鳴いている。夏の終わりである。少し涼しくなった
夕風に頬をなでられ、クリス・レアとかそーいうの
聴いちゃうぞ、ビール飲んじゃうぞ。という、キンモクセイ
にはまだ早い、甘酸っぱい切なさの名残りの季節である。
が、季節とはあまり関係なく、いつもベランダで見かける
虫もいる。尺取り虫などはその代表である。冬以外は
ちらほらいつも見かける。
先日などは、妙にサルスベリの木がさっぱり、というか
丸坊主だなあ、と思ってよく見ると、4匹もお食事中
であった。ほどほどにしてほしいのだが、わたしは
どちらかというと芋虫けむし愛好家 なので放ったらかし
である(ただ、チュウレンジバチの幼虫は大家族過ぎて
やっかいなので、卵を見つけたら枝ごと取ってしまう、
かわいそうだけども)。

おたまじゃくしはかえるの子、尺取り虫はシャクガの
幼虫。名前の通り尺を測るようにひょこひょこするのも
かわいいが、普段は大体「私は枝です。木なんです」と
かたくなな態度なのも面白い。シャワーホースなどで
水やりをしていてうっかり水をかけてしまうと、
「あわわのわ、大変大変水だ水」
とじたばたするのがかわいらしいが、しばらくすると
また「木ですよ木、動いたなんて、やだなあそんなの
気のせいですよ」という生真面目な姿に戻るのが
またおかしい。

うちにいる尺取り虫は、だいたい変哲のない、平凡な
地味な緑色のものばかりなので、たぶんヨモギ
エダシャクの幼虫ではないかと思う。ヨモギエダ
シャクの成虫は、これまた地味なのである。子供は
枝に似せ、大人になると木肌や岩肌に似せる。
地味に身を守ってきた平和的小市民気質の蛾である。
 シャクガで比較的派手なのは、シロツバメエダシャク
とかだろうか。雪の妖精みたいな、ホラちょっと
あそこの方。何か高貴な方じゃないかしら?みたいな
雰囲気である。

ま、地味なのもいいのだけども、やっぱり派手なのに
惹かれてしまうというのも人の性。というわけで
次回は、普段日常であまり見ない、派手な蛾について
書こうと思う。プリティ・イン・ピンクなのである。
蛾が。

2012年9月9日日曜日

あわわ、来週には。

ちとばたばたしていて、更新がお留守なのだけど、
来週には必ずや。

2012年8月26日日曜日

毎日が肝試し

映画「エイリアン」が好きだ。怖いが、好きだ。
ホラー映画はあまり得意ではないが、エイリアン
にはホラーだけでないロマンがある。
まず、エイリアンの造形がよい。あれは人間が
(いや、わたしが)怖いと思うツボをよくとらえている。

●顔がよく分からない。目がない(ように見える)
●黒光りしている。
●動きが速い 。

 ↑このあたりまで、端的にいうとゴキブリなのである。
そのくせ、体つきは人間なのである。ゴキブリ人間。
これが怖くないわけがない。(あと、口から口が
出てくるのもすごく恐怖のツボだが、あれはなぜ怖い
のか、まだよく分からない)



ただ、ゴキブリ人間であるだけではまだ物足りない。
何か、あのぎょっとする感じ、どこかで知っている
気がする。なんだろう。と常々思っていたが、
思い当たった。女王蜂、女王蟻。あの、スペシャルな
風格 がエイリアンにはあるのである。と気づいたのは
最近女王蜂に邂逅したのである。

仕事場のベランダ、大変せまい、30cmぐらいの鉢を
並べたらいっぱいくらいのスペースだが、そこに
西洋ツゲの鉢植えがある。
あるとき、水やりをしていたら、妙に蜂が飛んでいる。
あれ、と思ってツゲの枝の間を覗き込んでみたならば、
果たして、アシナガバチご家族ご一行がマイホームの
建設中なのであった。ううむ。このころサイズ2cm
ほど。留守中に撤去してしまおうか、しかし常に
お留守番さんが何匹かいるので、チャンスがない。
しかも、じっと見つめていると、微動だにせず巣を
守る姿がどうにも健気に思えてくる。どうしようか。
逡巡してるうちに、すっかり10cmほどの立派なお家に
成長してしまった。
わたしは蜂に刺された事はないのだが、刺されるのは
大いなる恐怖である。wikipediaのアシナガバチの
項目にも「刺されると死ぬ可能性もあるので刺されたら
すぐ皮膚科に行くこと」と書いてある。いざこざを
起こさずに共存するには、とにもかくにも巣を刺激しない
事らしいので、最近は水やりが命がけなのである。
そうっとバケツで木の根元にゆっくり水をやりながら、
注意深く巣を見る。蜂達は、じっと巣を守るもの、
忙しく働くもの、いろいろであるが、ある時、ついに
女王蜂に謁見あいなったのである。
そのサイズ通常の3倍ぐらい、堂々の貫禄。マザー
エイリアンは、ゆりかごを静かに揺らしている。
わたしの夏のホラーなのである。 しかも、体験型の。
ただ、水やりのたびに目が離せない。このホラー
にもまた、ロマンがあるからだ。 


(余談...ちなみに「エイリアン対プレデター」には
ロマンが全くない。)


2012年8月5日日曜日

悲しき処女飛行

今日はすこし悲しい話だが、おつきあいいただきたい。
休日の夕方、ベランダの植物に水やりをしようと、ホースを
握ってベランダに出た。
ぴやぴや、ぴやぴやと近くで鳥の声がする。振り返り、柵の
外をみると、至近距離でツバメが横切り旋回していった。
(わたしの家はマンションの3階だ。)そしてそれとは
別のもう一羽が、ふらふらと目の前の道路に舞い降りた。
目の前の道路は車通りが激しい。
あぶない。早く飛びなさい。ツバメはまた羽ばたこうと
する。宙に再び舞ったその瞬間、あっ。と思った時には
無情に車が通り過ぎ、地面の上でその黒い固まりは
動かなくなった。
上で旋回していたのは親鳥だったのだろう。
轢かれたツバメは巣立ち直後の成鳥だったのだろう。
親はただうろたえ、周りを旋回している。
わたしは、子供の頃、教科書で読んだ梅崎春生の
「猫の話」を思い出していた。その話の中で猫のカロが
轢かれたシーンそっくりだった。

一縷の望みを持って慌てて外に出てみたが、無惨、
わたしがエレベーターを下りる間にもう何回も轢かれ、
変わり果てた姿になり、親鳥もあきらめ、飛んで行って
しまった。せめて、マンションの植え込みに埋めてやる
ぐらいしかもう出来る事はない。スコップで木の根元に
埋めてやり、顔を上げると、 ほんのひとときの間に
夏の夕暮れは暗く沈み、最後の夕日が遠くの空を美しい
グラデーションに染めていた。
今日があのツバメの最後の日だった。
もしかしたら、世界に飛び立った最初の日だったのかも
しれない。

子供が育って、意気揚々と世界に出て行く。
美しい世界が広がっている。そして残酷な死も待ち
受けている。けれど、生き物はいつも、不安と恐れ、
そして期待に胸膨らませて飛び立って行くしかない。
わたしたちは数えきれない偶然が作る織物の生を、
その偶然の儚さに気づきもせず過ごしているのかも
しれない。

身近な目撃者としてのセンチメントが、世界で起こる
ありとあらゆる自分の知らない悲しい現実に対しては
何の役にも立たない自己満足の感情だとも知りつつ、
やはり書き留めずにいられない。

せめて、安らかに。今頃、空の高い高いところで
旋回していますように。

2012年7月22日日曜日

巻きもの帳その2

ある春の日の事である。電車通勤の折、停車駅で
車窓から路肩の雑草を眺めていると、何か禍々しい
物体が目に入った。毛むくじゃらの、宇宙人的な
巨大な何かである。むむっ!?と思ってみて見ると、
果たしてそれは、オシダの芽吹きなのであった。
30cmぐらいの、ロゼット状になって開く直前の、
とぐろを巻く姿はかなりぎょっとさせられる。
(ちなみにオシダは、開いた後葉の裏に展開する
胞子嚢も、つぶつぶ嫌いにはかなりのインパクトだ)


オシダのように巻いた葉が開いていくものがある
いっぽう、いろんな所に登るために育ちながら
どんどん巻いていく植物も多い。つる植物である。
わたしの家には、ツゲの鉢植えがあるが、そこに
毎年性懲りも無く生えてくるヤマノイモがある。
初めてヤマノイモが生えてきてむかごを作ったときに
「これは食べられるのか?」と思って調べた事がある。
なぜなら、ヤマノイモには、オニドコロ、 ニガカシュウ
という似た植物があり、ヤマノイモ以外は毒なので
ある。
同定のポイントは

●オニドコロにはむかごが付かない。
●ヤマノイモはつるが左巻き。オニドコロは右巻き。
●ニガガシュウのむかごはちょっとでこぼこしていて、
 苦い。 
●ヤマノイモは葉を日に透かすと、網目状の葉脈が
 見える。オニドコロは見えない。ニガガシュウの
 葉脈は日に透かさなくても見える、横縞の縮緬状。

というわけで、我が家のこのつる植物はヤマノイモ
のようであった。
しかし、勝手に生えてきたものを、いくら調べて
みても、何となく食べる勇気が出ない。ひ弱な都会人
なのである。
また、巻いていると言えば、身近な生き物はカタツムリだ。
(そういえば、カタツムリってナニ?昆虫じゃないし。
と子供の頃思っていたが、彼らは「陸に棲む巻貝」なのだ
そうだ 。言われてみればまったくそのままだ。)
カタツムリの殻は、右巻きなのか、左巻きなのか?
答えは、両方あるのだが、右巻きのほうが圧倒的に
多いらしい。人間の右利きが多いのと何か関係あるの
だろうか、ないのだろうか、ないのだろう。
そういえば、人間のつむじだって右巻き左巻き両方
あって、右が多いと聞く。私も右だ。だからといって
思想は別に右とか左ではないが。 というか、右とか
左とか、人間は訳の分からない渦の中に自分を
巻きたがるメンドクサイ生き物であることよ。
長い物には巻かれない矜持とか、そういう事こそ
大事ではないか?

話をカタツムリに戻すと、沖縄や九州の一部には
巨大な、いかにも「海にいる奴らの仲間です」と
いう感じのカタツムリがいる。アフリカマイマイと
いう、外来種の大型カタツムリである。ネットで
検索すると、観光客のみなさんがうっかり手のひらに
乗っけて陽気に記念撮影などしているが、とんでも
ないのである。アフリカマイマイには広東住血線虫
という寄生虫がついていて、人間に感染すると死に
至ることもあるのである。くれぐれも触っては
イケマセン。
ちなみに、よく北半球と南半球では渦の巻き方が
どーのこーのでコリオリ力が...みたいな話があるが、
あれを読んでもさっぱり分からない。そもそも
南半球に行き水洗トイレの渦を眺める機会は
一生のうちにないのではないか。と少し寂しく
この文章の巻とするのであった。

2012年7月8日日曜日

巻きもの番外編

更新が滞ってしまっている。旅行に行っていたのである。
というわけで、また来週には更新しようと思っているの
だが、ひとつ旅行中にあった、生き物は関係ないが
螺旋的なエピソードというかミニ情報をお届けする。

パリのメトロでAbbesseseという駅がある。ここで
ホームを出るとエレベーターに乗るひとびとが溜まって
いる。上に上がるまでの階段がチト長いらしいのである。
そんなもの、まだ年寄りでもなし、お茶の子さいさい、
ヨヨイのヨイよ。と彼らを横目にさっそうと階段を
登ったのが大間違いだった。すいません、わたしが
悪かった。ごめんなさいごめんなさい。
無限に続く螺旋階段、壁にはかわいらしい絵がいっぱい
なのだが、その長さたるや地獄、壁画などまるで目に
入らない苦行である。もう途中でこれは永遠に出口に
出られないのではないかと絶望するぐらい長い。
(こう感じたのは中学校の修学旅行の時、龍泉洞の
垂直ハシゴで「もう登るのも降りるのもイヤ」と
泣きそうになって以来である)登りきったときには
乳酸いっぱい疲労困憊であった。もう年寄りなのである。
一緒に登っていたおばあさんと抱き合って、生きて
再び地上に出られた喜びを噛み締めたいぐらいであった。
Abbesseseに行かれる方はゆめゆめ軽い気持ちで
階段を登ることのなきよう、心に留め置いたほうが
いいのではないか。と、いらぬおせっかいをぜひして
おきたい。


↓チュイルリー公園にあった螺旋のオブジェ。
なにやら有機的である。

ではまた来週。

2012年6月24日日曜日

巻きもの帳その1

 園芸書などでは「咲き終わった花がらは即刻摘みましょう」
と「花がら撲滅運動」を推進してあり、実際、花がらが
残ったままだと著しく美観を損なうこともあるので(おお、
なんと哀れなブッドレア、みすぼらしいマーガレット!)、
わたしも園芸書にならって親の敵のようにチョッキン
チョッキンやっている。特にゼラニウムはすぐに。
しかし、ある日、ずぼらにより放置してみたら、綿毛が
たくさんついている。
ゼラニウムの種なのである。

ゼラニウムは園芸用の通名で本名はペラルゴニウムで
ある。なぜペラルゴニウムなのにゼラニウムと呼ばれる
のかというと、ゼラニウムはゲラニウム、フウロ草の
ことであって、園芸種のゼラニウム(テンジクアオイ)と
呼ばれるものとはチト違うのである。昔は両者同じ
Geranium 属にいたのだが、やっぱり分けましょ、
まぎらわしいわ、ということで、ペラルゴニウム属に
なった。が、いかんせん先に「ゼラニウム」として顔が
売れてしまっていたため、改名するのもね、という事で
ゼラニウムのままで通す事になったといういきさつ、
らしい。
そして、ペラルゴニウムという名前については、
実のふさの形がコウノトリ(pelargo)の頭みたいだから
である。↓このように。
 この実のふさの中に種が入っているのだが、
それが、あるときゆっくりしゅるしゅると巻いて
ゆく。試しに机の上で巻いている様を観察して
みることにした(暇人である)。
倍速カメラがあるといいのだが、あいにく
そんなものはないので、時々眺めて観察すると、
見るたびにアッチコッチひっくり返って、
寝相の悪い子どものようである。
そうして3日ぐらい経ち(白状すると、途中で
スッカリ失念して放置状態になってしまい、
正確なところどのぐらいかかったのか分からない、
ちっとも観察になっていない。)くるくる巻かれた、
飛行準備万全の綿毛の種子になる。

 綿毛を眺めていたら、自然界にはどうしてクルクル
巻かれたものがたくさんあるのだろう? と思い、
他の巻きものについても考えてみたくなった。
それは次回に続く、なのである。

2012年6月16日土曜日

ビジネス書と私小説のはざまで


ベランダ園芸をしている。かれこれ11年かそこらで
ある。最初のうちは随分と無茶をしたものだ。鉢の量も
一時期は増え過ぎ、幾多の病害虫との戦いを経て、何と
なくベストバランスを発見し、落ち着いている。が、
やはり今でも新たな発見や失敗はある。

例えば、ずっと生育がよくないなと思っていたクレマチス
の置き場所を変えてみたら、思いのほかよく育つように
なり、去年までの姿とは別人(花)のようである。
ベランダでは、置き場所はままならない事も多いが、
やはり一番大切なのは何と言っても置き場所である。人間も
同じである。自分に合わないフィールドでがんばっても
いまひとつ成果がでない。自分にあった水を得れば
のびのびと実力以上の力がすんなり発揮できる。

育て方については、試行錯誤で、園芸書に頼らない
自分なりのメソッドを発見するのも大事だ。ただ、
いつも自己流というのもよくない。うまくないときは
基本に返って、園芸書を読み返してみると、分かった
つもりになっていて分かっていなかったことに気づか
される事もある。ただ、植え替えや剪定については
必ずしもセオリー通りでなくても、自分の育てたい
サイズやスタイルにある程度あわせる事もできる。
やりたいようにやればいいーこのベランダの創造主
は私である。

かまい過ぎもよくない。特によくないのは肥料の
やり過ぎだ。むしろ少し足りないぐらいでちょうど良い。
やり過ぎは肥料焼けを起こし、最悪枯れてしまう。
人間も甘やかされすぎると増長し、ダメになる。(が、
わたしに限って言えば、わたしは完全に「誉められて
伸びるタイプ」であるので、わたしには皆さんどうぞ
あくまでもやさしくしてほしいと切に願う。)

水に関しても、基本は肥料と同じ事が言えるのだが、過酷
環境ベランダでは、水切れは即、死を意味するので、水に
関しては、通常環境よりやや湿りがちで慣れさせている。

また、かまい過ぎはよくないが、あくまで愛を持って放置
するのであって、常に様子は見ておかなければならない。
愛が足りなければへそを曲げるのは人間だけではない。
もっとも悪い事には、気づいたらハダニとうどん粉と温室
コナジラミにまみれて周囲を巻き込み大惨事、愛の復讐は
恐ろしいのである。

しかし、愛だけではどうにもならない事もある。理由も
分からず滅びてゆくものもある。諸行無常を体現するのが
庭(含ベランダ)である。そういう時は、別れを惜しみ
つつ、その空いたスペースで次は何を育てようか、と
思っているまったく薄情な自分を発見する。ひどいもの
である。
途中まで、この分ではビジネス書の一冊も書けそうでは
ないかと思いながら書き進めてきたが、最終的には愛の
無情と人間の身勝手さを描く私小説のほうがいいような
気がしてきた。園芸家は業が深い。

2012年6月8日金曜日

なってみたいな夜の蝶

蛾はたいてい夜活動している。フランス語で蛾は
papillon nocturneと言う。(これは辞書で調べた
のだが、わたしのフランス語の先生のフランス人は
papillon de nuitと言っていた。どっちだ?たぶん、
どっちでもいいというか、フランス人はあまり虫に
興味が無いのかもしれない)いずれにしても「夜の蝶」
だ。わたしもイラストレーターでやっていけなくなったら
スナックさおりを開店して夜の蝶になるかもしれない。
(が、スナックさおりはママが飲んだくれて、つまみは
乾きものオンリーというひどい店である。やっぱり
やめたほうがいい)






話がそれたが、そうはいっても 昼間活動している
(姿を見る)蛾も結構いる。
特に目立つのが、ホタルガだ。特にこれからの時期、
ふらふらふらーと頼りなげに優雅に飛んでいるのを
見かける。
ホタルガはモードな蛾である。赤い帽子に黒地に白い
ラインの入った、いかしたドレスをまとっている。
普段わたしには全然区別がついてないが、ホタルガには
ホタルガとシロシタホタルガがいて、何が違うかというと
白いラインの入り方が違う。(↑左がホタルガで右が
シロシタホタルガである)一体なぜこんな微妙な
(言ってみれば別になくてもいいような)バリエー
ションが生まれるのか、教えてダーウィン先生という
気分になる。また、シロシタホタルガがホタルガと
違うのはもう一つ、幼虫の頃もモード感が強い水玉
模様である。
ホタルガの名前は、蛍に擬態しているかららしい。
頭が赤くて体が黒いからだ。では白いラインは、
光を表しているのだろうか?光らないのに光っている
ように見せるささやかな努力は、ファッションにおける
「痩せて見える服」などのコンセプトにも通じ、ますます
モード感が強い。

似せてみせる、といえば、昼間のスーパースターに似せて
昼の世界を謳歌している蛾もいる。 ジャコウアゲハに似た
アゲハモドキである。なぜジャコウアゲハに擬態している
のかというと、ジャコウアゲハは毒を持っているので、
似せればわたしも安泰だわ、鳥さん、わたしも食べら
れないのよ、そういうことでよろしくね。ということ
らしい。が、ちょっとお待ちよ、アゲハモドキの
うっかりものは、触覚まで蝶に似せるのを忘れている。
わたしは蛾です、の存在感ありありの櫛形の触覚のまま
なのだ。そう思って見ると、 シッポをつかまれてるのに
「わたしは蝶よ」とすましているような気がしてきて
なんだかちょっといじらしい。

活発に昼活動するのはオオスカシバやホウジャクである。
ハチドリみたいにホバリングして、同様に花の蜜を
吸っている。これは果たしてハチドリに擬態している
のだろうか?しかし日本にはハチドリはいない。
いないものを真似る事はないだろうから、他人のそら似、
ライフスタイルが似た者は形態も似るという事なの
だろうか?よく分からない。が、蜜を吸う姿は大変
かわいらしく、わたしは彼らが好きなのでアベリアや
ブッドレアをベランダで育てて来訪を待っている。

オオミズアオ もよく昼に見る。夜活動しているようだが、
昼も結構いろんな所で羽を休ませたり、あるいは飛んで
いるのも見かける。オオミズアオが飛んでいるところは
あれ?モンシロチョウにしちゃ大きいな、はんかち?
みたいな感じである。とまっていても、「あれ?こんな
ところにメモ貼ったっけ?」みたいな錯覚をする。
よく見ると、大変美しい。青みがかったオナガミズアオ
という種類もある。オオミズアオたちはホウジャクなど
と違い、口が無い。はかない命を恋に燃やして命を
終える。

と、派手な蛾にばかり目がいくが、マンションの壁には
「わたしは壁です」とへばりついてじっとしている、
ぜんぜん壁じゃなくて朽ち木模様のヨトウガやシャクガ
などもいるのであった。だいたい、蛾のほとんどは
木目っぽい。それを考えると、フランス語ではpapillion
 d'arbre(木)でもいいのではないか。
ごめんね、マンションが木目模様じゃなくて。と見るたび
ちょっと申し訳なく思う。 
あと数百年ぐらいしたら、マンションのタイル模様に
擬態した蛾も生まれるかもしれないが。

2012年6月3日日曜日

ナインライブスだからあと5回出会うのかもしれない


わたしは幽霊とかスピリチュアルとか風水やら占いやら
信じない無神論者の無粋な人間である。その理由としては、
宇宙規模のすべての神秘的な奇跡により、いま私たち
人類は偶然にこの地球というすばらしい星に間借りさせて
もらっているのだが、その宇宙規模の神秘が人間に特化
して、さらに個人の恋愛問題や部屋の模様替えなど些末な
問題まですべて作用してくれると思うのはチト虫が
よすぎるのではないかと思ってしまうからである。
(また、幽霊については信じると恐ろしいので信じない
という教義を積極的に採用していきたいのである。)
全ては偶然にすぎない。我々は塵と灰である。

...と言う前口上を全て覆して申し訳ないが、ひとつ、
秘密を告白しよう。わたしは呪いにかかっている。
なんの呪いかというと、「茶トラ猫の呪い」である。

それは小学校6年生のこと、クラスの友人が子猫を2匹
拾ってきて、クラスの皆で里親探しをしながら(クラスの
誰の家でも飼う事が出来なかったのだ)順番でその猫を
預かる事になった。わたしは猫を飼った事はなかったが、
猫に対する無限の憧れがあった。3年生のとき、猫を
飼ってる友人がクローバー咲き乱れる団地の芝生の上で
「猫とはね、鼻と鼻をくっつけると心が通じ合えるんだよ」
と得意げに秘密を開陳してくれたのだ(その場に猫は
いなかった)。 心が通じ合える?そんな、童話のような、
ムツゴロウさんのような事が現実に起こるのか。
いいなあ、猫。きっとわたしなら(誰よりも)猫と分かり
合えるはず。という子供らしい独善的な思い込みにより、
わたしはその時、猫との運命を勝手に感じはじめた
のだった。しかし友人は続けて言った。
「でも、それが出来るのは飼い主だけだよ」
猫の飼い主。なってみたいな猫の飼い主。わたしこそ猫の
飼い主に相応しいはず。どこまでも自分中心主義の子供で
あった。

さて、そんな事だから、わたしはその子猫をぜひとも飼い
たかった。親に頼んでみたが、頼む前から答えは分かって
いた。ノーである。わたしの母は、その頃たいへんな猫
恐怖症だったのだ。とんでもない。
しかし、頼み込んで、何度か預かり当番になる事だけ
なんとか許してもらった。猫は茶トラとサバトラだったが、
茶トラの方は体も小さく、弱々しかった。靴箱の中で寄り
添って眠る2匹は、全てのパーツがちっちゃく柔らかく、
ぷっくりとしたお腹が上下に動くさまは、とてもかわい
らしかった。
そうしているうち、やはり弱い子猫のうちに環境がころころ
変わったり、子供に触られたりしたのがよくなかったの
だろう、茶トラの子猫はある日、別の友人宅で預かっている
時に死んでしまった。知らせを受け、悲しくて悲しくて
ベッドで布団にくるまって泣いていたら、そのうちに寝て
しまった。
やがて、うすぼんやりと、寝ているのか覚めているのか、
うつつの浅い眠りの中で、何か、軽い生き物が背中を
歩いているのを感じた。とす、とす、とす、と歩いている。
あっ、死んでしまったあの猫だ。と思い、また眠りの中へ
引き込まれてしまった。きっと、それは只の夢だったの
だろう。
次の日、 クラスで子猫のお葬式をした。わたしは
「ごめんね、ごめんね、生まれ変わったら次は幸せに
なってね」
と祈っていた(まだその頃は生まれ変わりを信じる
ウブな子供だった)。

その後、サバトラの猫はめでたく里親が見つかり月日が
流れ。高校生になったわたしは、茶トラ猫に再会する。
学校の生物室で捨て猫の里親募集をしていたのだ。
大きくなった分、主張の強くなったわたしは、今度は
親の説得に成功し、その茶トラをもらってきた。はじめて
の私の猫。彼女はそれから23年我が家の家族であった。

そして、20歳の頃にもまた用事で近所を自転車で
走っているとき、茶トラの子猫を拾ってしまった。
ごていねいに「拾ってください」とマジックで弱々しく
書かれた段ボール箱に入って、ノミだらけで力一杯
泣いている。これを拾わずおれるものか。あわてて
連れ帰り、2度のシャワーの洗礼(本人にとっては拷問
だったかも知れぬ)を浴びせ、飼い手を探してはみたものの
そのうちにすっかり我が家の家族と相成った。

結婚して家を出るとき、すっかり家と母になついている
2ひきの猫達は、環境を変えたらかわいそうなのでは
ないかと実家に残してきた(と書くと大げさだが実家は
徒歩5分である)。
が、結婚後もまた茶トラの罠があったのである。道ばたを
散歩していると、うらぶれた、今にもつぶれそうなペット
ショップの軒先に「あげます」と書かれた鳥かごに入った
茶トラ猫。ペットショップであげますなどと、この打ち捨て
られよう、看過出来ようか。またしても。あえなく陥落、
もらって帰る事となり、ソファでこの瞬間も一緒に
ダラダラ過ごしたり、鼻と鼻をくっつけあっているという
現在に至るのである。

かわいそうな最初の子猫が生まれ変わったにしては数が
合わないが、なんとなく、あの子猫が呪いをかけて生涯
茶トラ猫と付き合うように定められたのかもしれぬ、と
勝手に思っている。これが「茶トラ猫の呪い」の一部始終で
ある。
...のだが、もしかしたら、明日は黒猫を拾うかもしれない。
宇宙は偶然に支配されているのだから。












人も歩けばBarにあたる、鳥はどうか?


鳥はいいなあと思う。羽根があって、空を自由自在に
駆け巡る。私たち地上にへばりついてる愚鈍な人間とは
大違いである。我々人類は、地べたをうろつくしかなく、
うろつきすぎて酒場にたどり着いたりして、止まり木に
止まってピーチクパーチク、いやいやときには独り飲み、
みたいな事になり、かりそめの自由を味わったりしている。
が、よく見ると鳥も、けっこう地面を歩いているものだ。

特に町中で見かけるウォーキング派はハト、ムクドリ、
セキレイのあたりだ。彼らもうろつく目的はきっと
人間と同じで、食生活なのであろう。ムクドリは芝生や
原っぱなどでなにかをつついて食事している。虫
むしゃむしゃ、虫うまい。というところだろう。
ハトは、メス相手に膨らんでみたり、足下の何かを
つついたりと忙しい。場所はどちらかというと
アスファルトの上で見かける事が多いように思う。
草むらに比べると食べられる物は少なそうに思えるが。
駅のホームなどにもいる。周りにひしめく人間も
忙しく会社へ家へどこかへ向かうが、ホームというのは
その隙間の時間なので、ぽかりと時間が空いている。
空いているのでなんとなく、人間の足の林をくぐり抜ける
忙しそうなハトに目をやったりしている。見るに、ハトは
何か絶え間なくつついているようなのだが、人間の目に
目視出来ないほど微細なものか、あるいはエアー状態な
のか、こちらからみると何にもないところをつついて
いるように見える。私たち人間にはありがたいことに、
駅の掃除員さんは勤勉なのだ。 ゆえに、パン屑なども
滅多に落ちていない。腹はいっぱいになるのだろうか、
とか、一度うっかりとてつもなくおいしいものを
つついて、その後永久にその食べ物に出会えず
「ああ、あのときのあれ、また食べたいなぁ...」と
再会を焦がれている、とか、ないのだろうか。

私が特に好きな歩く鳥はセキレイだ。チョコチョコ
チョコーと、小走りに移動して人間などを避けている。
そのくせ、いつまでたっても飛ばない。ひたすら
歩いている。駐車場などで車が来ても飛び立たない。
ハラハラさせる可愛いヤツなのである。あそこまで
いくと、補食の為に地面にいるのではないような
気がする。歩くのが好きなのか、飛ぶのがおっくう
なのか。おっくうであるほうに私は一杯賭けたい
感じである。と、止まり木でぼんやり考えたり
している。

はじめにー自己紹介とブログについて

こんにちは。イラストレーターの大塚砂織と
もうします。(プロフィールなどこちら)が、
このブログは身近な生き物や植物などについて、
雑事を書くブログです。週1回ぐらいを目安に
更新予定です。
基本的に何か学術的に参考になるような事は
なんにも書いていませんが、読み物として
楽しんでいただければと思います。本人も
楽しみで始めましたので。

2012年5月31日木曜日

近日オープン工事中

うっかりいらした方へ まだ作りかけです。6月中旬までには本格オープン予定です。